【3・1ビキニデー 第五福竜丸を忘れない】

 1954年3月1日午前3時42分(日本時間)、米軍は1回目の水爆実験を行いました。危険性を知らされていなかったマーシャル諸島住民や周辺海域の漁船が被ばく。爆心地から推定160キロの場所でマグロ漁をしていた第五福竜丸も被害にあいました。
 母港である静岡県焼津港に戻ったのは被ばくから2週間後。平均年齢25歳だった乗組員23人全員が、急性放射能症と診断され入院しました。無線長だった久保山愛吉さんは、同年9月、「原水爆の被害者は、私を最後にしてほしい」との言葉を残し亡くなりました。
 この第五福竜丸の被ばくをきっかけに、原水爆禁止運動が大きく発展しました。現在は国連加盟国192カ国中、133カ国が核兵器禁止条約の交渉開始を求める決議に賛成。日本原水協が呼びかける新しい「核兵器全面禁止のアピール署名」の取り組みも始まっています。
 東京都江東区夢の島公園内にある都立第五福竜丸展示館に足を運んでみてください。